【明治時代に製造された車両も】加悦鉄道で活躍した客車たち 2020/3/29 加悦⑥
ディーゼル機関車も蒸気機関車も客車がなければお客様を載せることはできません。ということで、今回は加悦SL広場に展示されている客車を紹介しようと思います。加悦鉄道では明治生まれの客車も多数使用されていました。
ただし、一部客車が修繕中であったため、撮影出来ておりません。その点はご了承ください。
加悦鉄道関連記事一覧
miyakoji-cityliner.hatenablog.com
miyakoji-cityliner.hatenablog.com
miyakoji-cityliner.hatenablog.com
miyakoji-cityliner.hatenablog.com
miyakoji-cityliner.hatenablog.com
イギリス風のコンパートメントが並ぶスタイル ハ4995
もともとハ4999として1893年に鉄道作業局新橋工場で造られた、木造の二軸客車です。1928年に加悦鉄道が譲り受けた後、1935年に福知山にあった北丹鉄道の工場で車体を新製、ハ20となりました。1970年に、同様の改造で不要となり倉庫として使われていた、もとハ4995の車体を載せて改造前に復元し、車号も「ハ4995」としました。屋根は明かり取りのある二重屋根となっており、車輪は松葉スポーク車輪になっています。
加悦SL広場では2号機関車に連結して展示されているので保管場所には屋根がついており、保存状態はかなり良好です。
イギリスでは最近まで見られた、コンパートメント(半個室のこと・区分室ともいう)が並ぶようなスタイルです。車内には通り抜けできる通路がなく、枕木方向に車体幅一杯の座席があり、それぞれの区画の側面に扉が付いています。
座席は畳になっおり、背もたれは木の棒一本だけです。今じゃ考えられないような車内に驚愕です。
ドアノブは全て外側についているので駅係員による開閉か、窓を開けてドアノブを操作するかの二択しかありません。おそらく、乗客は安全のために操作せず、係員の操作にだけ頼っていたものと思います。
この構造は遊園地のジェットコースターなどによく見られますが、かなり非効率な仕組み。短時間の乗車だといちいちドアを開閉しないといけないので手間がかかりますし、長距離の乗車だとトイレが無いので困ります。だから、この構造はあまり浸透しなかったのだと思います。
車体を新製したハ21
もともとハ4995として1893年に鉄道作業局新橋工場で造られた、木造の二軸客車です。1928年に加悦鉄道が譲り受けた後、1935年に福知山にあった北丹鉄道の車庫で車体を新製しました。その際にいらなくなった車体は倉庫として利用されていたものの、現在ハ20の足回りにその車体を載せて展示しています。
車内は固定クロスシートですが、非常に小さく、また背もたれは木となっています。
ハ21は兄弟車のハ20(もとハ4999・現在ハ4995として保存されている客車)と共に、朝夕の通学列車に活躍しました。当時は2両ともブレーキが付いていませんでしたので、ハブ3などのブレーキ付きの車輌を連結する必要がありました。
1964年には手ブレーキを取り付けましたが、車号に「フ」はついていません。
加悦鉄道再現列車としてイベントに登場することもありますが、私が訪れた際には修繕中でした。
二等三等合造車のハ10
1926年に梅鉢鉄工所(後の帝国車輌工業)で造られたボギー客車です。三重県の伊賀鉄道(後の近鉄伊賀線→現伊賀鉄道)が発注しましたが、同年に電化が始まったため、加悦鉄道が”新古車”で譲り受けたものです。1969年に元東急電車サハ3104と入れ替わりで休車となっています。
屋根はダブルルーフ(二重屋根)になっており、天井に明り取りの小窓が並んでいます。
座席は二等、三等共ロングシートですが、背もたれは二等はモケット、三等は木と差がついています。
二等の椅子はちょうどよい硬さで快適なのですが、三等はちょうど肩のあたりの窓枠が来るので決して快適とは言えません。三等の客室にはつり革がありますが、二等にはありません。二等は全員着席を前提にしているものと思います。
当時の等級制度の概念として客層を分けるという意味合いの方が今よりも強いので、これぐらいの差が適切だったのだと思います。
間仕切りの扉は二等の文字が入ったすりガラスになっていました。
発注当初は車内にあった間仕切りで客室を二分しており、現在の半室グリーン車のような車輌でした。間仕切り撤去について1964(昭和39)年に認可されていますが、1995年の修理の際に新製当時の様子に復元されています。
当時の国鉄のルールに従い、三等は赤帯、二等は青帯が窓下にまかれています。
製造所である梅鉢製作所の梅のマークが見えます。
サハ3104導入までは加悦鉄道唯一のボギー客車として活躍しましたが、ブレーキはついていませんでした。
貨客合造車のハブ3
1889年にドイツのVan der Ziepen(バンデルチーベン)社で造られた木造の二軸客車です。三重県の伊賀鉄道(後の近鉄伊賀線→現伊賀鉄道)に1927年に加悦鉄道が譲り受けました。
車体の半分は荷物室になっており、床下には珍しい松葉スポークと呼ばれる車輪がついています。
客室は三等のみで客車の半分を占めます。
椅子の座り心地はハ10の三等とほぼ同じです。
実際の営業ん店のときは閉まっていたと思われるドアを開けて客室から荷物室を覗きます。
荷物の積み下ろしがしやすいように側面には大きな扉があり、床には木片でできたレールがあります。
荷物室には手ブレーキのハンドルがありますが、車掌用の座席はありません。
加悦鉄道の客車には、ハ10のようにブレーキ装置のない車両も多く、そうした列車の端にハブ3のようなブレーキ付きの車両を連結しましたした。機関車から汽笛の合図があると、車掌が手ブレーキを操作し、機関車とブレーキ付き車両の力のみで停車させていました。
ハブ3の全室客室バージョン フハ2
1916年に名古屋電車製作所(現日本車輌)で造られたニ軸客車で、加悦鉄道開業翌年の1927年に三重県の伊賀鉄道(近鉄伊賀線→伊賀鉄道)から譲り受けました。
フハ2の「フ」はブレーキ付きを意味し、一方の端のデッキに手ブレーキのハンドルが付いています。
側面には下降窓が並び、客席は全てロングシートで、背もたれは木になっています。伊賀鉄道出身同士のためか、車内の様子はハブ3に酷似しています。
現在、加悦鉄道再現列車を機関車で運転するときには、その相方の客車として活躍しています。
訪れた際には終戦中で見ることは叶いませんでした。
元通勤電車のサハ3104
元東急電鉄の電車デハ104(電動客車)で、1925年に藤永田造船所で造られました。1942年にデハ3104に改番、1953年にモーターを取り外して付随車サハ3104となり、1968年に廃車となったものを、翌年加悦鉄道が譲り受けました。
それまでは東急電鉄の車両一員として通勤輸送に活躍していたものが、突然丹後の地で働き始めることになったわけです。
しかしわずか3年後の1972年にキハ08 3が稼働すると休車となりました。キハ08 3登場まで長さ17mは加悦鉄道では最大の車両で、大きな輸送力を誇っていました。
1977年に旧加悦駅構内の「加悦SLの広場」開設に合わせて休憩車に改造、1996年に加悦SL広場が現在地にオープンすると「カフェトレイン蒸気屋」に改装、レストランとして営業を始めました。
「カフェトレイン蒸気屋」は2018年9月をもって閉店し、現在車内を見学することはできません。
加悦鉄道と客車
加悦鉄道の旅客輸送で大きく活躍したのがこれら客車たち。朝ラッシュ時には持ち合わせの客車を全て連結してその対応に当たったこともあったようです。また、電車を購入してそれを客車として使うという発想はかなり独特なものであると思います。
晩年では気動車にその役目を引き渡したものの、その後も大切に保存されてきました。
近年では2軸客車を見る機会はかなり減少してきており、この加悦SL広場では明治時代の列車の旅を体感することが出来るのが特徴でした。
今の電車に比べると、座り心地は悪いですし冷暖房ももちろん非装備。揺れもかなり大きかったと思います。そんな環境で、昔の人は旅行へ出かけていたのです。
それからかなりの月日がたち、今の旅は快適そのもの。旅行へ行く際に、このような客車に乗りながら旅する様子を想像しながら乗ってみるのも、良い楽しみ方だと思います。