【大阪~神戸間開通時からの蒸気機関車も保存】加悦SL広場に保存される貴重な蒸気機関車たち 2020/3/29 加悦⑤
加悦SL広場に保存される気動車、ディーゼル機関車を紹介してきましたが、加悦SL広場というからにはSLを紹介しないわけにはいきません。今回は加悦SL広場に保存される蒸気機関車の紹介です。
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目次
加悦鉄道で活躍した蒸気機関車
大阪~神戸間開通当初から活躍!2号蒸気機関車
1873年に製造された軸配置1-Bのタンク機関車です。官営鉄道の大阪~神戸間建設に使用され、翌年からその区間の旅客列車に使われました。1915年年に島根県の簸上鉄道(現JR木次線)に払い下げられ、1926年に加悦鉄道が譲り受けました。
世界で最初の機関車製造会社であるイギリスのRobert Stephenson(ロバート・スチーブンソン)社で造られました。そのため、部品類は全てインチ単位で設計されています。
加悦鉄道では開業当初から主力機として活躍しました。1942年には蒸気ブレーキの取付も行われましたが、空気ブレーキの取付は行われず、1956年にボイラーの水漏れがひどくなり休車となりました。それまでの83年間の走行距離は1,958,596km、地球約49周したことになります。
加悦鉄道では2号機関車が休車となった後もそのまま保存し、半世紀後の2005年、2号機関車は車歴簿(機関車台帳)と共に国の重要文化財に指定されました。重要文化財指定に伴って保存場所に屋根が取り付けられています。
この手の保存は登場当初の姿に復元されることが多いのですが、加悦SL広場では加悦鉄道現役当時のまま保存されていることが特徴です。1985年の廃線まで引き継がれた加悦鉄道のロゴマークが残っています。
空気ブレーキが特徴的な4号蒸気機関車
1921年に川崎造船所兵庫工場で造られた動軸3軸(Cタイプ)のタンク式蒸気機関車で、河東鉄道(現長野電鉄)の3号機として登場しました。1934年に長野電鉄から譲り受け加悦鉄道4号となりました。
1968年に休車になり、翌年廃車されました。
1940年にニッケル鉱石輸送に備えて空気ブレーキ取付工事を行い、印象ががらりと変わりました。そのための空気ダメが正面向かって右側に取り付けてられており、正面から見るとより一層目立ちます。
日本冶金工業保有 1261号蒸気機関車
1923年に日本車輌製造で造られた動軸3軸(Cタイプ)の蒸気機関車で、島根県の簸上鉄道5号機として登場しました。1934年に簸上鉄道が国鉄に買収され木次線となったのに伴い、国鉄1261号となり、1943年に同型の1260号とともに日本冶金工業が譲り受けました。
簸上鉄道はキハ51も活躍していた鉄道です。
簸上鉄道時代に空気ブレーキが取り付けられており、ニッケル鉱石輸送のために譲り受けた機関車でした。戦後は旅客列車や岩滝工場の入換などで使用されました。1967年に休車になりました。
加悦鉄道以外からやってきた蒸気機関車
山口の長門鉄道や東レの滋賀工場で活躍 103号蒸気機関車
1915年に製造された動軸3軸(Cタイプ)の蒸気機関車で、山口県の長門鉄道で使われました。1947年に東洋レーヨンが譲り受け滋賀工場の入換に使用、1964年に宝塚ファミリーランドに寄贈されました。
2003年の宝塚ファミリーランド閉園にともない、加悦SL広場での保存を開始しました。
アメリカのH.K.PORTER COMPANY(ポーター社)で製造されました。
最後に使用された東レのロゴが残っています。
播但線でも活躍したC57 189号蒸気機関車
1946年に三菱重工三原製作所で造られ、新潟県の新津機関区に配属されました。直江津、豊岡を経て1971年に新津機関区で廃車となり、1973年から保存されています。豊岡時代には播但線などで活躍しました。
国鉄C57形は、動軸3軸、軸配置2C1のテンダー式機関車で、旅客列車を中心に活躍しました。1750mmの大きな動輪直径と、細いボイラーが腰高な印象を与え、鉄道ファンからは「貴婦人」の愛称で親しまれました。1937年から1947年までに201両が製造されましたが、189号機は戦後すぐの3次形に分類されます。
北海道出身のC58 390号蒸気機関車
1946年に汽車製造で造られ、北海道の小樽築港機関区に配属されました。1975年に北見機関区で廃車となった後、加悦町にやってきました。
国鉄C58形は、動軸3軸、軸配置1C1のテンダー式蒸気機関車で、ローカル線の客貨両用機関車として活躍しました。1938年から1947年にかけ427両が製造されましたが、390号機は戦後タイプに分類されます。前述のC57 189とは同い年になります。
機関助士のシュミレーター 模形火室投炭練習
機関助士が蒸気機関車の燃料となる石炭を、デンターからスコップですくって均等に火室の底に投げ込まなければなりません。そのための練習装置がこれになります。D50を模したシュミレーターになります。
福知山機関区で実際に使用されていたものになります。
シュミレーターでの出来具合をこちらの成績表を使って評価を行います。
機関助士というのは想像以上に難しい仕事で、上手に石炭を投げ込まないと熱がしっかりと伝わらず走行させることができません。また、運転室に煙が充満したり不完全燃焼になったりするなど命の危険に晒される可能性もあります。蒸気機関車を運行する上でかなり大切な役割です。
それに比べると近年の電車は運転士一人で全て運転することができます。自動運転の技術も成熟してきており、無人運転が行われている鉄道すらあります。便利な時代になったものです。
技術の発展というものを感じさせてくれる装置です。
蒸気機関車が走るころ
加悦SL広場にはこれら6両が保存されています。
1926年に加悦鉄道が開通して以降さまざまな蒸気機関車が使用されてきました。加悦鉄道では1960年代まで明治期の蒸気機関車が活躍していました。ニッケル鉱石輸送のために空気ブレーキを装備したものもありますが、約50年前まで加悦鉄道の一線を担っていたわけです。丹後地区、さらにはニッケル鉱石輸送を通じて日本全国の発展に貢献しました。
加悦鉄道以外からやってきた3両も日本の発展を支えた貴重な車両たちです。
また、加悦鉄道での引退後、京都市内の大宮交通公園で保存されていたC160号蒸気機関車も加悦の地に運び込まれていますが、部品の欠品があったため閉園までに一般公開はできなかったようです。
加悦SL広場閉園後も大切に保存されてほしいものです。加悦の地で再会できることを楽しみにしています。